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2012年2月8日 日本経済新聞朝刊「交友抄」に所長山田悟史が紹介されました。

日本経済新聞交友抄より「年金の知恵袋」


日本経済新聞
ライフワークである年金問題を考える上で欠かせない知恵袋がいる。社会保険労務士の山田悟史氏だ。

彼の事務所は、企業城下町の群馬県太田市にある。 中小企業の経営者が年金や労務でどういう悩みを抱いているかを知り抜いていて制度の盲点を指摘してくれる。

知り合ったきっかけは私が15年前に社労士として働いていたときに執筆した「早わかり年金実践事務手引」だ。

書店を通さずに販売していたため、私の事務所に注文の電話をくれた。「こんなに実用的な本はいままでなかった」。

当時としては珍しかった手引書を手放しで褒めてくれた。それ以来、群馬県の温泉に出掛けたり山登りを楽しんだりしている。

年金記録は一人ひとりの生き様で、それを扱う制度は公平でなければならないというのが彼の持論だ。

「いまの制度だとこういう不公平な事例ある」。彼の助言は年金保険料を払う側の目線で政治家や役人では気づかない点が多い。

会うときはたいてい場末の居酒屋だ。上野のガードレール下のお店のカウンターで焼き鳥をかじりながら年金制度をどうするか口角泡を飛ばしあう。

日本酒党で大の日本史好き。酔いが回ると「年金制度は戦争の歴史なんだよ」と、壮大な年金の歴史絵巻が紐解かれる。

これからも二人三脚で走り続けたい。(内山晃うちやま・あきら=衆院議員)
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読売新聞新聞(2011年3月3日)「くらし 家庭」60代からのマネー術⑤にて、所長 山田 悟史のコメントが掲載されました。

2011年3月3日 読売新聞掲載
60歳で早めに年金、減額に注意


読売新聞記事
今年60歳になる男性(1951年生まれ)なら、60年代前半の間の公的年金(特別支給の老齢厚生年金)は、月9万~10万円ということが多い。

年金だけで暮らすのは大変だ。それを補うには、まず働き続けることだが、通常は65歳受給開始の老齢基礎年金を早めに受け取る「繰り上げ受給」という選択肢もある。

老齢基礎年金の本来の年金額より減らされるという注意点があるが、社会保険労務士の山田悟史さんは「繰り上げをした方が、60代前半の年金の総額を増やすことができます」と話す。

老齢基礎年金は月単位で繰り上げることができ、1か月早めるごとに年金が0.5%減る。最長5年繰り上げて60歳から受け取る場合、5年×12か月×0.5で、減額率は30%。通常の老齢基礎年金(満額)の月約6万6000円が、5年繰り上げで約4万6200円となる。この減らされた年金額は一生涯続く。

ただ、特別支給の老齢厚生年金と合わせた年金額は、月14万円前後となる。 「繰り上げた場合と通常受給とを比べると、77歳前後で通算の年金受給額が同じになり、それ以降は通常受給が上回る」と山田さん。また、繰り上げ受給の開始後に障害者になっても、障害年金が受け取れないことがあるなどの点にも注意しよう。

ただ、山田さんは「60代前半の生活費が不足しそうとか、定年直後の生活を楽しみたいと考える人には、注意点を理解したうえでなら利用価値はある」と話す。平均寿命や自分の生き方を総合的に見て、どちらがいいか考えよう。

繰り上げの逆で、66歳以降に最長70歳まで年金受給を遅らせる「繰り下げ受給」もある。1か月繰り下げるごとに年金額が0.7%増え、最大5年間繰り下げると年金額は42%増だ。

繰り下げは老齢基礎年金、老齢厚生年金双方で利用できる。「家計に余裕があるなら、基礎年金と厚生年金のどちらかを繰り下げるとか、夫婦どちらかの年金を繰り下げるなども検討できる」と山田さんは話す。
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特別企画:
上毛新聞(2007年12月~2008年9月【計6回】)「オピニオン21」にて掲載し、大変ご好評いただいておりました、所長 山田 悟史によるコラムを転載させていただきます。

2007年12月20日 上毛新聞掲載
「きめ細かさが難しさに」


上毛新聞記事
いらっしゃいませ。こちらは日本年金会館でございます。私はこの会館の案内係、ガイドでございます。

何しろこの広い建物をひとりでご案内しますので、不行き届きもございましょう。その折は何とぞこの場に免じ、ご容赦願います。

それでは当会館の生い立ちからまいりましょう。厚生年金会館は1942(昭和17)年に産声をあげ、戦争を経て54(同29)年に再建。国民年金会館は61(同36)年に新築。そうして運命の年、86(同61)年。今から21年前、共済年金会館、厚生年金会館、そして国民年金会館の3つを合体し、この立派な日本年金会館が完成しました。そこの土台のところが基礎年金と申します」

筆者は日々、年金の最前線でガイドをしています。ガイドですから笑顔でお客さまと接し、耳をすませて質問を伺い、お客さまが分かるように、安心されるよう手短かに語らねばなりません。

そのつもりで、この欄でも一生懸命につとめてまいります。

さて、初回は「お客さまの行く道」です。60歳を迎えてからの、お客さまの行く道は数知れません。さまざまあり得ます。

まず「仕事のコース」では、仕事を①やめる ②続ける、続けるとして ③フル勤務 ④パート ⑤再就職。

「年金コース」では①くり上げしない ②全部くり上げする ③一部くり上げする ④44年で退職する ⑤障害で退職する

「年齢コース」では①59歳でやめる ②60歳でやめる ③65歳前後でやめる ④65歳以降も勤める。

「雇用保険コース」では①活用しない ②59歳で活用 ③60歳で活用 ④64歳で活用 ⑤65歳すぎで活用。

「在職年金コース」では①年金コースのどれを選ぶか ②給料は下がるか ③変らないかなどなど。

はたまた「男と女のコース」「社会保険ありなしコース」と合わせて7コース。

七色の虹のごとく、お客さまの人生のように、色とりどりのパターンがあります。さらに加えれば、経済コースにはとらわれない、わが道を行く、悠々自適の道もあるでしょう。

この7つのコースを組み合わせると何通りになるか。細かいバリエーションを加えますと、数え切れません。選択に迷い、頭を痛めるお客さまがいますが、私の方が実はずっと頭が痛いのです。

厚生年金会館は築後65年を迎え、その間、たび重なる増改築。この年金会館はご案内したくも、入ったら出られぬペンション(英語で「年金」のことをペンションというそうです)のようです。ガイドの最大の頭痛のタネは、年金図面が読み切れぬところ…。

課題があるから改正する、不公平だから公平にする。「改正」「改築」を重ね、今の会館が完成しましたが、きめ細かさは難しさと表裏一体でもあります。

年金現場では今日も相談員が額に汗し、対応の毎日です。2007(平成19)年は奇しくも年金年となりました。雨降って地固まる、禍を転じ福と致しましょう。
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2008年2月15日 上毛新聞掲載
「違いを学んでおきたい」


上毛新聞記事
これは、ある学園の、入学から卒業までの物語です。

その歩む道を年金道で語った、空想の、そして科学的でない物語です。

「むかーし昔、赤城太郎という男の子と、榛名富士子という女の子がおりました。

ふたりは日本のおへそ渋川で出会い、そして結婚。花嫁の富士子は榛名から赤城へ引っ越し、ここに赤城一家が生まれました。

やがてほかほかカップルから愛の結晶が紡(つむ)ぎ出され、4人の子が誕生しました。上から順に、年子(としこ)、金一郎、金次郎、金三郎といいます。4人きょうだいは皆ソックリで、毎日なかよく遊び、暮らしておりました。

やがて4人は成長。年子は、はや大学4年、金一郎は高3、金次郎は中3、金三郎は小6となり、この3月は富士子ママと太郎パパは、どっちがどの子の卒業式に付き添うか大わらわ。頭を痛めています。そこで銀作ジイと銅(あかがね)バアに頼んだところ、二人は大歓迎。冥土の土産にと毎晩眠れぬ日々。そうです、赤城さんちは8人の大家族なのでした」

ここで、4人の子らが歩む年金道を、二つの学園になぞらえてお話ししてまいりましょう。

厚生年金学園の入学は最年少で15歳。義務教育を終え、民間の会社へ就職し、厚生年金に加入する。この形が最も長く加入できる道です。義務教育修了後、64才まで44年ほどまじめに勤める方がおられます。よく出会います。そういう折には「お疲れさまでした」と、声をかけないではいられません。

それでは学園の卒業はいつか。定年60歳で再雇用。さらに65歳で再々雇用、ついに70歳。なんと15歳から70歳まで55年の加入。厚生年金学園の卒業は、最年長で70歳なのです。

一方、国民年金学園はどうでしょう。ちょうど区切りよく、入学は成人の20歳、卒業は定年の60歳で、最長40年加入です。

それでは各学園の学生証(年金手帳)は、いつ発行されるのでしょうか。厚生年金は就職時点、国民年金は20歳時点です。他方、卒業証書(年金請求書)は、いつ授与されるのでしょうか。厚生年金は60歳、国民年金は65歳になります。2007年1月より、卒業証書(年金請求書)の送付サービスが始まり、便利になりました。

さて、話は再び赤城さん一家に戻ります。4人の子は皆、学年に応じた年金授業を受けており、加入手続き、保険料、そして年金額については筆算もできます。保険料の未納は恥ずかしいと仕込まれ、あり得ません。祖父母の年金額の内訳までよくわかります。

筆者は、近い将来、学校でこうした年金教育が行われることを期待しています。

3月は卒業式の時季。どこからともなく「仰げば尊し」の詩(うた)が響きます。「思えばいと疾(と)しこの年月」の「疾し」は「早い」という意味だそうです。4人そろっての卒業式。8人家族の3月は、“メークドラマ”なのです。

それではここで、卒業祝いに一枚の色紙を。
(春の海 ナミダ泪(なみだ)の なみだ舟)
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2008年4月9日 上毛新聞掲載
「教科として学びたい」


上毛新聞記事
平成X年Y月Z日。

今日は、年金学園の卒業認定試験日。現場から実況中継でお伝えしましょう。

「いま私(字幕で年金太郎と出る)は、年金学園の前に立っております。朝8時開始の試験に向け、7時からゾクゾクと受験生が押し寄せています。インタビューしてみましょう。

『あなたは何年生?』
「小6です」

『夕べは眠れましたか』
「ええ、ぐっすり」

『あなたは何年生ですか』
「大学4年です。」

『調子はいかがですか』
「夕べは一睡もしてません…>」

ご覧のように、反応はさまざまです。大勢の受験生がなだれ込んできています…」

年金学園は、小・中・高・大の年金教育一貫校です。卒業1ヶ月前にそれぞれの卒業生に年金試験を行い、合格者のみ卒業、不合格者は最悪の場合、留年となります。

合格点は60点。不合格者には追試があり、その合格点は70点に。それにも落ちるとハードルはさらに高くなり、80点に。3度目に落ちると「仏の顔も…」で、もう1年居残ることが決定します。

そのため受験生は3ヶ月前から昼夜を分かたず机に向かって準備の毎日。年金塾、年金ゼミは大繁盛。社会保険労務士はモテモテ。

それではその試験問題を眺めてまいりましょう。読者の皆様、挑戦です。

【小6の問題】
「年金学園を22歳で卒業。厚生年金に加入し、働き続けて65歳で退職。43年間の平均給料は30万円とする。この人の年金額を筆算で求めよ」

【中3の問題】
「①小6の問いに答えよ ②その43年間の累計保険料を筆算で求めよ」

【高3の問題】 「①小6と中3の問いに答えよ ②43年間の保険料と平均余命までの年金受取額の相関式を求めよ」

【大4の問題】
「①小6から高3までの問いに答えよ ②100年後の社会情勢を予見し、100年あんしん年金財政を原稿用紙3枚にまとめよ」 いかがでしょう。易しくありませんね。さらにユニークなのは、この学園の卒業後。卒業生に保険料未納者はナシ。また、65歳を迎えると年金ポイント制が待つ。小・中・高・大の合格点数に応じ、ポイント加算があり、65歳からの年金額が最大10%増になる。これを「ポイント加算年金」と呼びます。

以上が筆者の予想する未来です。学校生活の中で年金が正規の科目となり、そして試験もある。国語、社会、算数から数学、さらに経済に至るまで、いろいろな視点で年金について学ぶチャンスをつくること、それが肝要と考えます。

平成X年Y月Z日。その日が訪れると、信じます。
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2008年6月17日 上毛新聞掲載
「400年前から議論続く」


上毛新聞記事
上州最古の城を寺尾城といいます。

文書の記録の上で最も古いお城です。その記録とは、鎌倉幕府の歴史書「吾妻鏡(あづまかがみ)」です。

江戸の地名もその中に初登場し、江戸も寺尾城も共に初めてその姿を現します。上州の城の始まりです。

さてその寺尾城はどこにあったか。高崎か太田か、太田か高崎かと、議論は長きにわたり、決着がついていません。 およそ400年前から始まる議論なのです。

事の起こりは双方に「寺尾村」があり、今は太田でその地名が消えている事。また徳川家康公調査団がその由緒地を太田とし、菩提寺を作られた事に始まります。

また城といっても館や屋敷ほどで、住めば寺尾館(やかた)、守れば寺尾城と記録されています。

寺尾城の記録文は。「1192(いい国)つくろう鎌倉幕府」ができる12年前の治承(じしょう)4(1180)年、源頼朝公が旗上げし、周辺武士団に援軍を求めましたが、静観していた武将が上州にいました。新田義重(よししげ)公です。

吾妻鏡に『新田義重公は自立の意志があり、頼朝公から援軍を求められても、上野国(こうづけのくに)寺尾城に兵を集め、引きこもった』と記され、ここに寺尾城が初登場します。

議論の始まりは、この寺尾城の前に地名が書かれていない事に発しています。ここが核心です。

それでは寺尾城の議論を二つ紹介します。その代表的な主張が、雑誌『上毛及(じょうもうおよび)上毛人(じょうもうじん)』に収められ、上毛新聞社より再版され、誰でも図書館で見られます。上州が誇る歴史的歴史雑誌です。原文をご覧ください。

①高崎説(大正3年、雑誌創刊第1号25ページより、早川碩鼠(せきそ)氏の発表の一部)
「名挙と由緒ある寺尾城の所在は、新田郡寺井村(現太田市)あるいは片岡郡寺尾村(現高崎市)なりと、衆説区々(くく)未(いま)だ一定するに至らざるは、上毛歴史上における欠点というべきなり。ゆえに上毛人たる者講究研鑚(けんさん)この問題を解決し、世人の迷いを解くべくなり」と、漢文調で力強く語っております。熱烈に高崎説を主張。

②太田説(大正14年3月、第95号1ページより、岡部赤峰(せきほう)氏の発表の要約)
太田の聖応寺(しょうおうじ)は、今も寺尾山聖応寺と称し、境内の石碑にも寺尾村が刻まれている。義重公は、新田乃庄の地主であり、新田乃庄寺尾城の記録もある事など、熱烈なる太田説を主張。 寺尾城の議論は今も続いています。過去の歴史書や発表をたずねれば、白熱の、そして情熱の寺尾城史が見えてくるでしょう。

私は幾多の先人たちの熱意にひかれ、自らも加わりつつあります。日本史は足元の郷土史から始まる、と思います。
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2008年8月6日 上毛新聞掲載
「建郡の喜び刻んだ宝」


上毛新聞記事
上毛かるたに「昔を語る多胡の古碑」とあるその石碑は、何を語っているのでしょうか。

石に刻まれた多胡人の声をきいてみたくなりました。

上信越道「吉井インター」で下車、7分ほどで多胡碑記念館に着く。そこにガラスに囲まれた多胡碑があり、ゆったりとほほ笑む。それにしても不思議なのは、石碑ただひとつで、これほど立派な記念館が成り立つのはどうしてなのか。思わず帰りがけに『吉井町誌』という本と、多胡碑のミニチュア版を手に取り、土産にしてしまいました。

昭和49(1974)年刊の同町誌に、多胡碑は①和銅4(711)年、今から1300年前につくられた②那須(なすの)国造碑(くにみやつこのひ)、多賀城碑とともに日本三碑といわれる ③山ノ上碑、金井沢碑とともに上野(こうづけ)三碑とよばれる ④新たな郡(または町)を記念しての石碑としては全国唯一であると記されています。

多胡碑の内容は「上野の国に、新たに多胡郡ができました」といえばアッサリし過ぎますが、今の世の市町村合併と反対の、地名誕生の記念の証しです。

碑文は、朝廷から下された、命令書そのもの、公文書そのものを碑に刻んでしまったとされ、今ではとても考えられないことです。いわば超拡大立体コピー版です。

公文書それ自体を石に刻ませた力、そのエネルギーはどこから出たものでしょうか。吉井町誌によれば、多胡周辺には古くから、朝鮮半島からの外来人が多く住み、地名「多胡」の「胡」は外来人を指し、多胡自体、外来人の多く住む土地を表します。

甘楽郡の甘、「かん」は「韓」からきているとされます。 朝鮮半島から移住した外来の人々は、先進文明をこの地へ運び、新たな暮らしを始めたことでしょう。日本の地に住み、営み、そして同化していく過程で、「われわれの町が新たにできたんだ」そういう喜びを表現したかったのではないでしょうか。

町誌の187ページに次のようにあります。

『多胡碑は全国唯一の建郡の記念碑である。多胡郡は外来人を主体とし、関東で最初に設置されたものだけに、その喜びはたとえようもなく、その喜びを石に刻み、後世に伝えようとした』

ひとは圧倒的な喜びにあたり、何かをしたくなります。また、あまりの家族の不幸にあたり、悲しみ、記録したくなります。喜びの証しが多胡碑、悲しみの記録が、山ノ上碑(墓誌)でしょう。1300年間、この碑を地元民は愛し、大切にされてきました。たとえ国宝の指定を受けずとも、多胡碑は、国の宝であり、日本のタカラなのです。
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2008年9月26日 上毛新聞掲載
「山ノ上碑の碑文評価」


上毛新聞記事
さる7月14日、大野晋(すすむ)先生がお亡くなりになりました。

大野先生の生涯は日本語の起源、日本語の源流を求めての88年でした。それでは日本語の歩みを先生の説に沿ってたどってまいりましょう。

【大野説】
日本から7000キロ離れた南インドのタミル人が3000年前に日本へやってきた。時は縄文時代の終わり。タミル人は舟を操り、黒潮に乗って、北九州へやってきた。

彼らは①コメ作り ②金属器 ③ハタ織りの三大文明をもってきた。これを俗に弥生文明とよぶ。タミル文化の伝来と一緒に、古代タミル語が古い日本語にかぶさった。タミルの文化と言葉と習慣が、日本の奥深く浸透した。ここに至り、日本語の原型、ヤマトコトバが生まれた。

それを裏づけるため、双方に①約500の言葉の対応があること ②語順(文法)が一致すること ③五七五七七の和歌が古代タミルからきていることを立証。さらに考古学の上から、当時の南インドと日本の①農具 ②かめ棺 ③子持ち土器の共通性を踏査。加えて、民族の上から①小正月の祭り ②しめ縄をはる、門松を立てる ③餅(もち)を神に供える   などの共通点を列挙。 大野先生は、弥生文明はタミルから、とされました。

約30年前に発表された衝撃的なタミル語日本語起源説。賛否いずれの立場でも、日本語史上もはや無視できない説になりました。  そんな話は信じられない、と言われる方もありましょう。日本語の源は南インド、タミルにあり?弥生文明はインドから?そういえば、アイウエオの五十音もインド産だそうです。ゼロの発見も、仏教も、カレーも…。  

先生の評伝を詳しく紹介した7月15日付のある新聞によれば、先生いわく「新説には異論が伴う。100年後には正しさが理解されるでしょう。あのね、マダガスカル島の言語は、インドネシア語と共通するんですよ。母音終わりの日本語は、ポリネシア語とも共通するんですよ。舟を繰り、ポリネシア、タミルから言葉がやってきても不思議ありません」

著作はたくさんあります。『日本語の源流を求めて』、『日本語練習帳』(100万部超)、『日本語の形成』など。その中で大好きなのが1966年刊の『日本語の年輪』です。

なぜなら、その中で、本県高崎市の山ノ上碑の日本語文を紹介されたからです。「漢字を道具として使い、日本語の語順で記した、この碑を忘れてはならない」と。 山ノ上碑は上州人の誇り。日本語史の宝です。ちなみにタカラは、タミル語でtakaram。高い、貴(たか)き、に通じるそうです。


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